昭和54年 3月16日 朝の御理解    入力者【明渡徳子】
②・⑨・⑫


御理解第77節「人の悪いことを、よう言う者がある。そこにもしおったら、なるたけ逃げよ。陰で人を助けよ。」


陰で人を助ける。これが素晴らしいと思うですね。陰で人を助ける。昨日、ある方から電話が掛かって来た。ある人をまあ信じておった、いや、自分の味方だと思うておった。ところが、反対のことであったことが分かった、反対のことを言うておられることが分かった。時におかげを頂いて、この頃は、ね、それが一つも触らない自分に気がつかしてもろうて、有難かったという他の電話があった中にそのことがありました、ね。

人の悪いことを言わないと。ということと同時に、いー、人から悪く言われた(雑音・・・)たら、反対に悪く言われたと、ね。ところがそれが一つも心に触らなくなったと。それが有難いと、ね。お互いも段々そこんところを体験してまいりますですね。そのことをお礼お届けさしてもらいよったら、②●泥でこうなんか泥、泥饅頭のようなものを作ってこう、こう手で塗ってから綺麗にしておられる。

ところが、しばらくしたら乾くとこう割れ目が出ますよね、泥は。ちょうどあの、泥壁を塗った時そうでしょう?綺麗に塗っておるようですけれども、後からヒビが入るでしょうが。そのヒビが入っているところを頂くんです●。ね、これはどういうことかというと、ね、⑨●例えばもうこの人から自分が悪口言われるということは、まあ、あー、ないと思うておった人が悪口を言うておるということが分かった時に、ね、それに対する一つの敵意を持つ。

「そげなこつ言いよったの」ちゅって腹が立つのではなくて、腹も立たない心の中で穏やかにそれを治めることができる。言わば土の信心である。ところが段々思いよれば思いよるほーど腹が立ってきたと。その時は綺麗に塗ってごたるけれどもね、ヒビが入って来たというのではなかろうかと。

まあ人間的に言うたら、もうほんとに腹の立つことだ、腹の立つことだと言うよりかもっとひどい、いー、言葉があるなら言った方が、あたくしもそう思いました。ところが、それがこう腹を立てんで済むおかげ。言わばそれが障らないようになった。ところが、段々日にちが経つに従って、思えば思うほど腹が立って来たといったようなようなことがありますよね。

言うなら塗り立ての壁ん時には綺麗になっておるけれども、日にちが経って乾いてくるとヒビがいってくる、ね。だからその、その程度では陰で人を助けるということはでけないということです。ね、最後に、陰で人を助けよと、ね。ただ、陰で祈っておるといったようなことじゃないです、祈りじゃない、助けよです、ね。●

それこそ助かるような言わばおかげを頂くにはですね、その後になってヒビが入るのではなくて、ね、それをもう1つ上塗りをしておかなきゃならない。今日はあたくしこの七七節でしたね、だから「七七」にもう1つ「七」を加えるとどういうことになりますか?「七」を3つ書いたら。「喜び」と言う字になるでしょう?

ね、段々信心をさして頂いておって、はあ、これも土の心で、ね、これも黙って治める。という生き方を段々稽古さして頂いて、そのことの言うならば、はあ、言わんでおって良かった、腹を立てんで良かったと言うようなおかげを、段々頂いて行くということは素晴らしいことなんだけれども、それが少し問題が、あー、大きくなったり、自分の言うなら信用問題に関わるようなことであったりすると、ね、どっこいと受け止めたはずのその心がまた次第にひき割れてくる、ひびが入ってくる。

ね、これは七七段です。これでもう1つです、ね。それにもう1つこう、「七」の字が入ってくる。もう1つそのことにお礼が言えれる、もう1つそのことに有難いと思え、そして、そう、悪口を言うなら言うておる人のことを、まああの人の立場になったら、悪口も言いたいといったような事情もあったのだろうと、まあ祈ってやれれる心がです、ね、「七七」にもう1つ「七」を加えたもの。「喜び」。

そういう喜びを持って祈るというようなことにならないと、陰で人が助かるというようなことにはならいないと思う、ね。陰で人を助ける。しかし、こういう心の状態になった時に、ほんとに我とわが心が拝める時じゃないでしょうかね。どうしてもやはりそういう心の状態を目指ささなければいけないですね。そしてその周囲に、人が助かるようなおかげを頂かなければいけませんですね。

昨日は、岩井千恵子先生ところの主人が亡くなられて、えー、丸10年になりましたから、10年の式年祭がございました。もうそれこそ前々から願いに願い、祈りに祈って親子の者が、あー、昨日のお祭りを奉仕さして頂いた。この頃十三日会の時に発表しておりましたように、一人息子の良一君が、えー、2時頃のお祭りじゃから、ね、学校も、半、行ってそして早引きをして帰って来るように言ったら、「いいや僕はその日は休むよ」と言うげな。

どうしてやっちゅうたら、「心構えがいる」っちゅうた。もうこれにはお母さんも「そげなこと言わんもんの」とも言えずに、心構えがあると。まあ朝から休んで、まあ言うなら昨日のお祭りを親子親戚の者皆集まって、まあ奉仕させて頂いたわけです。

私は昨日、そのー、それこそ思いいっぱいのお祭りを奉仕させて頂いて、これはいつの霊祭の時にもそうですけれども、新たなものを頂いたり感じたりするんです。昨日はもう本当に尊いことを私自身頂かしてもらった。神様に報告のお届けをさせて頂いておりましたら、②●大きなこうにじき?のかかったのに、大きな熨斗がね、熨斗と言うものは右側にこう、右の肩にするもんでしょう?それが左肩に大きくサーッとこんな大きな熨斗が、あのかかっておるところを頂いた●、ね。

そして私は、ははあー、合楽理念をもってするほかはないということ、商売、海外布教、ね、百姓、もう一切全てのことが海外布教、おー、合楽理念をもってするほかはないと、言う風に頂いてきたけれどもね、あの-、⑨●御霊様のお祭りを合楽理念をもってするほかはないということを初めて気が付かせて頂いたです。もう皆さん御霊のお祭りも段々近づいてまいりますがね、もう本気で合楽理念に基づいた御霊祭りを拝ましてもらい、奉仕さしてもらわなきゃいけないということであります。

それはどういうことだと思うですか?ほりゃあどこだってご先祖の式年祭でもする時にには思いを込め、真心を込め、しかも前から願いに願い祈りに祈ってする。ここは同じなんです。どこがそんなに違うのだろうかと。昨日は、あの、後のご直会を久留米の(ちょうしゅうという品料理が出張してきましてね、あの-、まあ熱いの、ご直会、大変、えー、美味しい品料理を食べさせてくれましたが、あたくしはあの-、始まる前にその、家内に品料理のそのコックさんが来ておるならば、1つだけでもいいから美味しい物なんか熱いのを作って、そしてちょうどその、霊祭の半ばにお供えが出来るように、えー、指図をしておくように申しました。

だから家内が、千恵子先生にそのことを申しましたら、千恵子さんが答えて言う。「いいえ、もう今日の御霊祭りは親先生を中心ですから。そういうことはいりません」とこう言われるです、ね。合楽理念をもって言うならば霊祭を仕えるということはそういうことなんです。これは、日頃合楽理念のけん、いわゆるマスターをし、実験をし、実証をしていっておる、言わばそういう稽古を繰り返しておるわけです、ね。

そこで、そんならその霊祭を仕えるでも、御霊様が喜んでくれるようにということはもちろんですけれども、そのもう1つ上にです、神様の心に叶うような、ね、金光大神に喜んでもらえれるような、親先生が喜びなさる。こういう心がけでいつでん親先生が喜んで下さるという信心が、そのまま霊祭に表れるということが、合楽理念をもって霊祭はするほかないということになってくるんです。

違いましょうが、ね。日頃の信心をどう表すか、日頃の信心を御霊様のお祭りに表すと、普通の霊祭は申します。けれども日頃の信心をです、言うならば、ね、神様を中心、神様に日頃稽古しておる言うなら心意気と言ったようなものが、その霊祭に表れてくる。金光大神に喜んで頂くようなお祭り。とにかく親先生が喜んで頂くような霊祭を奉仕させたい、奉仕させて頂きたいという、その思う心が霊祭は合楽理念をもってするほかはないのだということを、頂きました。●

昨日、朝の御祈念の時に伊万里の源右衛門と言う、あの-、陶芸師がおりますね。ここで、えー、ご縁を頂いて、まあ逐一いろんなことをお願いして、今はあちらも大変、あの佐賀県では1番あの、税金がたくさん納める、うー、あれに入っておられるそうですけれども、もういろいろあっちこっちに手を出したことが元になって、もうー、倒産寸というごたる、まあ-苦しいところに今立ってあるです。

その②●源右衛門さんがあの、お風呂に入っておるところを頂きました。だからあたくしは、えー、お風呂に入っておる時に、はあ極楽という時の、ばってん今ごろ源右衛門さんが極楽という境地になるということはないが、どういうことだろうか●と思うて、ただ、あのその御神意を伺わずにそのままでおりました。

そしたら昨日の午前中ここで奉仕しておる時でした。電話が掛かってまいりましてね、あの-、「アメリカのニューヨークのある大きなデパートから、あの招聘を受けて、今日発たせて頂くからどうぞよろしくおかげを頂きますように」と言う電話が掛かって来た。ははあ、入浴しとったじゃから、あー、ニューヨーク入りじゃったばいのと改めてあたくしは思ったんです、ね。

例えば今の源右衛門さんが信心が出来ておられ、大して信心が出来ておられないのに、この苦しい中にも有難い境地を開いておるはずはないし、ああ極楽的なこともないのにそういうお知らせでしたからね。あたしはそれを追及しませんでした。けれども電話が掛かってきて初めて、ははあ、今日のにゅう、これはしっかりお願いしなければいけないなというふうに思ったんですけれども、えー、②●あたくしは霊祭の時に必ずあの、お風呂入るんです。

お風呂入って、えー、まあ言うなら、あー、極楽の気分と言うでしょうかね。必ず一人先生が入られますから、一人の先生がもう洗って、えー、お湯が掛かっておるけれども、あたくしはどうもこの体中石鹸ぼうがついておるような感じがするから、体中風呂の中でまたこすって洗うんですよ。もうそれが何とも言えん気持ちの良い。

そして、このあがるその、あたしが風呂からあがる時の様子を頂くんです。だら、足も悪いからまああがる時はどっこいしょで上がるくらいですけれども、御心眼で頂くのはサーッと湯を切ってもう、もう勢い良く、「さあ、今から霊祭!」と、次の霊祭を仕えなければならない勢いを持って風呂から上がっておるところを頂きました●、ね。

そこでお互いがね、おかげを頂いたとこう言うでしょう、ね。だからまたは、はあ、極楽。⑫●ほんとにこういうおかげを頂いてもったいないとこう思うでしょう?ね、その心でね、次の信心に飛躍していかなければいけないということを頂きました、ね。だから、極楽と言うてです、ただおかげ頂いて、そして何か知らんけど安心のごたるものを頂いて、信心がそこに腰上げてしまうと言ったような例が多いわけです、やれやれです。

だから、湯冷めしてからまた風邪ひいたっちゅう結果になるわけです、ね。だから、極楽のその後、自分の心に有難いというものを感じたその後が大事だと。その有難いという、極楽と思われれるようなその心で、次の信心に飛躍していくというその姿勢が、信心を進めていく上にどうでもいるのです●。

今日の言うなら御理解も意味は少し違いますけれども、例えば、ね、おかげを頂きまして、例えば悪口を言われても、その人のことを悪口を言う気も起こらない。自分の心の中に、それこそ黙って治めるだけの内容は、がでけたことが有難いと思う。だからその有難いとその、言う心で次の信心が飛躍した時に初めて、2つの七にもう1つの七の字が付くようなおかげになる時じゃないでしょうか。

そういう喜びをもって言うならば影で人を助けるということになった時に、初めて影で人が助かるようなおかげと。言うならば塗り立てのか、あーのその、言うなら壁だけで終わらずにです、ああおかげ頂いとるなと思うだけじゃなくてです、ね、それが例えばヒビがいりそうになったら、その上にからまた上塗りをかけさして頂くような信心が願われなければならんのじゃないでしょうか。

おかげを頂いて有難いと思う心で次の信心の、いや、風呂から勢い良く上がって、さあ今から霊祭だというその勢い込んだ信心。そこに今日のあたしは七七節に、もう1つ「七」を加えると「喜び」になる。1番最前そのことをここで頂きましたから、ね。昨日のその電話のー、で、おかげを頂いておると言うその人の例から、ただ、おー、ほんとに障らんようになりましたというだけじゃなくて、それがもう1つ喜びで人が助けれるだけのおかげを頂くためにもう1つ上塗りをしておかなきゃあいけない。

勢い、その有難い心で次の信心に飛躍しよう、次の御用に、えー、言うなら、あー、取り組んで行こうというような信心が必要だと言うことになります。どうぞ。